2005年3月2日

3月1日の朝、ミュンヘンの自宅でベランダに寒暖計を出しておいたら、気温がマイナス13度だった。バイエルン州の南部のベルヒテスガーデンに近いある湖のそばでは、マイナス43度という記録的な寒さを観測した。昨日から1泊で出張してきたサラエボでも、マイナス10度で夜に町を歩いたら、顔が凍りつきそうになった。夜7時になったら、モスクの塔にとりつけられたスピーカーから「アラー・アクバル」という祈りの声が聞こえてきた。失業率は40%、ボスニアでは多くの人が憂鬱そうに見えるのが悲しい。氷と雪が歩道を覆って歩きにくい冬は、特にそういう印象を与える。

あるボスニア人によると、内戦たけなわの頃国連でボスニア担当だった日本人A氏の評判は、今でもかなり悪いそうだ。「あれはA氏個人の問題であり、君がA氏と同じ日本人だからといって悪感情は抱きませんが」と付け加えてくれたが。ボスニア人たちは今でも、当時国際機関から見放されて多くの人が命を落としたと考えているのだ。

彼はまた、コソボは独立以外に問題を解決する道はないのではないかと言っていた。通貨もすでにセルビアのディナーではなく、ユーロが使われているそうだ。アルバニア語以外の言葉、特にセルビア語に近いボスニア語やクロアチア語を話すと、かなり白い目で見られるらしい。コソボは今後も欧州にとって台風の目であり続けるだろう。